こうすけの 歴史探偵inにしのみや
西宮という地名の由来を考察いたしますに、えびす神社の総本社である西宮神社(社家町)はどうしても避けることはできません。鳴尾から見て西なのか、京の都からみて西なのか、諸説あるようですがそういう地名の由来を考察するのは楽しいことです。
えっ?興味ないって?
まぁ、そんなことおっしゃらずに少しばかりお付き合いくださいよ。
延喜5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳という神社の一覧にある大国主西神社が現在の西宮神社といわれています。もちろんそうでないとの主張もあるのですが、ここからは大国主西神社は西宮神社のことであるとの前提のもとに続けてみましょう。
その延喜式神名帳には大国主西神社の他に廣田神社(大社町)や名次神社(名次町)の名も記されているのですが、ここでひとつの大きな壁が現れるのであります。というのも、廣田神社、名次神社は律令制の行政区分で武庫郡にあり、一方大国主西神社は菟原郡にあると記されているのです。武庫郡は現在の西宮市の大部分であり、菟原郡は芦屋市、神戸市東灘区、神戸市灘区に該当しています。
じゃあ西宮神社は芦屋に位置するの??????
しかしのしかしですよ。大正八年、西宮神社門前の本町生まれの我が亡き祖母は、武庫郡西宮町出身と言っておりましたよ。そうよそうよ。西宮神社は武庫郡ですよ。ということは延喜式神名帳に関わる最初の前提自体がおかしいのでしょうか?

西宮神社は菟原郡?武庫郡?
さてさて、謎ときの散歩に出かけましょうか?西宮神社をあとにてくてく歩きます。向かう先は西宮市立郷土資料館!!そこで先の疑問に対する答えを見つけようじゃないですか。
交通ルールを遵守し歩くことしばらく、夙川沿いにある西宮市立郷土資料館に到着です。
館内の展示を見てまわります。その展示内容はそれはそれで興味深いものなのですが、西宮神社に関わる疑問は解決できません。ということで学芸員さんに質問タイム!学芸員さんはロッカーから「慶長十年摂津国絵図」の複製本を出してページをめくってくれます。慶長十年といえば1605年、徳川秀忠が江戸幕府の二代将軍に就いた年で、その江戸時代初期の絵図によりますと西宮神社は武庫郡に位置しております。そしてその西を夙川と思われる川が流れており、その西にある集落も武庫郡に含まれております。普通に考えると川を郡境にするのが自然なように思われますが、どうしたことでしょう。(現在も西宮芦屋市境は夙川ではなくその少し西にあります。)
ムムムッ!では菟原郡の大国主西神社は西宮神社のことではないのかな?
すると学芸員さんが絵図を説明しながら興味深いことを言います。
学芸員さん 「川の流れなど治水工事などによって変わることがありますから、この絵図と現在の地形が一致するとは限りませんがねぇ。時代時代によってずいぶん変わります。」
こうすけ 「川の流れが変わる???」

夙川沿いの西宮市立郷土資料館。
さらなる謎解きのため隣接する中央図書館へ。じつに久々に図書館に入りましたよ。なんだか懐かしいなぁと感慨深くなるものの、中には懐かしくないものもありまして、それは音楽CDコーナー。へぇ~最近の図書館にはこんなものがあるのかとびっくりです。おじいさんが数名静かな図書館の中でヘッドフォンかけて目を閉じて音楽鑑賞中です。CDコーナーにはクラシック音楽などに並んで落語のCDもあるのですが、そんなの聴いてゲラゲラ笑っていたら、すぐさま大目玉を喰らうのでしょう。そんな人いたら面白いだろうなとしばらく観察しますが、図書館でゲラゲラ笑う猛者は現れませんでした。
おっと。そんなの観察に来たのではありません。真面目な顔して「町名の話」(山下忠男著 西宮商工会議所発行)を手にとります。
ふむふむ、なるほど、なるほど。そうなのか!!
なんだか少し嬉しくなって図書館を出て西宮神社へ戻ります。そして西宮神社から北へ進みマンボウと呼ばれるミニトンネルを抜けてJR線の北に出ます。

JR線の下をくぐるマンボウ。(居酒屋さんの奥)
先月の「こうすけの鉄分補給inにしのみや」でもJRの線路をくぐるマンボウを紹介しましたが、こちらのマンボウは谷崎潤一郎の「細雪」にも登場する由緒あるマンボウであります。
そしてマンボウの少し北に一本松というこれまた「細雪」に登場する由緒ある老松があるのであります。そこには石碑がありまして、、、、。

マンボウの北にある一本松。
その石碑には「史蹟往古武庫菟原郡境傳説地」と記されております。
昔、夙川(当時はその名は無かった)は現在の阪急夙川駅の北側あたりから南東方面に流れ、西宮神社の北(つまり一本松のあるこの地)から東を経由して海に注いでいたとされます。その川が武庫郡と菟原郡の境であり、当然ながら西宮神社は菟原郡に位置します。

川を挟んで青色側が菟原郡、赤色側が武庫郡。
また、平安時代の「純友追討記」に記述の見られる菟原郡須岐駅という宿駅が現在の宮西町あたりにあったとされます(須岐駅は現在の芦屋駅あたりにあったという説もあります)。
鎌倉時代に夙川の流れが治水工事により現在の流れに変えられることになり、西宮神社は川の東側、即ち武庫郡に位置することとなりました。また須岐駅周辺は新流路や土砂採取地となったため住民は川の西側の土地を開発し、従来の川東の土地は古宿と呼ばれるようになったそうです。

夙川が現在とほぼ同じ流れになった。
新しく開発された村は宿駅としての役割が次第に失われていき、農村としての性格が強くなっていくと「宿(シュク)」から「夙(シュク)」または「守具(シュク)」と変化していきます(「須岐(スキ)」から「シュク」に転じたという説もあり)。
どうやらこのあたりが夙川の川の名前の由来のようです。

江戸時代以降に郡境は夙川の西に移動します。
当初は夙川が菟原・武庫郡の境界でしたが、夙川の西側の守具(夙)の村は、武庫郡の古宿の子村(枝村)であったことから江戸時代の間に武庫郡に編入されたと思われます。これが夙川が西宮芦屋市境でない理由であります。
一方で大社村誌によると守具村の祖先は垂仁天皇の皇后に殉じて生き埋めにされそうになったところ、野見宿禰(ノミノスクネ)に救われたとされます。野見宿禰は殉死の代わりに埴輪を考案した人物で、村人は彼を崇拝し続け「宿禰(シュクネ)村」としたのが「守具(祝)」に変化したそうです。それが真実ならば夙川の名前の由来は野見宿禰ということになります。
いろいろややこしくなりましたが、やがて「守具」は「モリグ」と呼び名が変わり「森具」の字が充てられることとなりました。
森具村は昭和8年に西宮市との合併により行政区分としての名が消えましたが、現在でも国道2号線の交差点、阪神バスの停留所などに「森具」という地名を残しています。
(森具・守具の地名はかつてこの地が京からの西国街道と大坂からの西国街道の出合の宿場町であったとの説もあります。)

夙川橋から約400メートル程西の国道2号線「森具」交差点。
屋敷町周辺は森具村の中心地で、かつての街道を偲ばせる狭い路が通り、蛤御門の変で敗れ国許へ逃れる長州藩士を見守ったとされるお地蔵さんなどがあったそうです(「町名の話」より)。そのお地蔵さんを探してみますが、この辺りは阪神大震災の被害が甚大であった地域で大規模な区画整理が行われたので昔ながらの狭い路地など見つからず、結果お地蔵さんにも出会えませんでした。そのかわり森具公園の端っこに震災の犠牲者を慰霊するお地蔵さんを見つけましたので手を合わせます。
国道2号線を横断して森具のお宮さんである須佐之男神社にお参りします。手水舎に向かうとセンサーで自動感知して水が流れ出すので思わずびっくりしてしまいます。小さな神社なれどハイテク機器が備わっています。

森具のお宮さん 須佐之男神社。ハイテク設備完備!!
お参りの後は2号線を東に向かいます。その名の由来に触れた夙川まではすぐです。国道2号線の夙川橋から北に行くとJRの列車が東へ西へと夙川を渡っていきます。

複々線のJRの線路が夙川を跨ぎます。
東京起点に573キロ480.08メートルの地点にある夙川に架かるこの小さな鉄橋は明治7年大阪~神戸間に鉄道が開通した折に架けられた由緒ある鉄橋です。マンボウというようなユーモラスな名前でなくて残念ですが、この鉄橋にも名前はちゃんとあるのであります。
その名は「守具川橋りょう」!!!
JR西日本に確認しましたところ「もりぐがわきょうりょう」と読むそうです。「守具」という地名がここに残っておりました。「夙川橋りょう」とは言わないところになんだか嬉しくなってきます。このことを誰か人に話したくなってきますが、話が長いと煙たがられるのが関の山です。それに手書きで地図を作製するのも大変なものです。

「夙川橋りょう」にあらず「守具川橋りょう」!!
最後までお読みいただいたみなさん。とりとめもない長い話になってしまいました。少しばかりのお付き合いといいながら随分引きずりまわしましたねぇ。ごめんなさいねぇ。まぁ、「30分だけ飲みに行こう!」などと言って本当に30分でお開きになったことなんてないのと一緒です。
でも私にとってはなかなか面白い謎解きでした。もしあなたがこういう回りくどいことに興味を示さないのであれば、中央図書館に行って落語のCD聞いてゲラゲラ笑ってみるのはいかがでしょう。そこで大目玉喰らっている人など観察するのが大好きな人もいるんですよ。
西宮に根付いて郷土史の研究などに興味がある人、図書館で落語を聞いてゲラゲラ笑いたい人は是非「にしのみや」での就職を考えてみよう!!まずはサクラナビをチェックだ!!
http://n-cci.or.jp/sakuranavi/
えっ?興味ないって?
まぁ、そんなことおっしゃらずに少しばかりお付き合いくださいよ。
延喜5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳という神社の一覧にある大国主西神社が現在の西宮神社といわれています。もちろんそうでないとの主張もあるのですが、ここからは大国主西神社は西宮神社のことであるとの前提のもとに続けてみましょう。
その延喜式神名帳には大国主西神社の他に廣田神社(大社町)や名次神社(名次町)の名も記されているのですが、ここでひとつの大きな壁が現れるのであります。というのも、廣田神社、名次神社は律令制の行政区分で武庫郡にあり、一方大国主西神社は菟原郡にあると記されているのです。武庫郡は現在の西宮市の大部分であり、菟原郡は芦屋市、神戸市東灘区、神戸市灘区に該当しています。
じゃあ西宮神社は芦屋に位置するの??????
しかしのしかしですよ。大正八年、西宮神社門前の本町生まれの我が亡き祖母は、武庫郡西宮町出身と言っておりましたよ。そうよそうよ。西宮神社は武庫郡ですよ。ということは延喜式神名帳に関わる最初の前提自体がおかしいのでしょうか?

西宮神社は菟原郡?武庫郡?
さてさて、謎ときの散歩に出かけましょうか?西宮神社をあとにてくてく歩きます。向かう先は西宮市立郷土資料館!!そこで先の疑問に対する答えを見つけようじゃないですか。
交通ルールを遵守し歩くことしばらく、夙川沿いにある西宮市立郷土資料館に到着です。
館内の展示を見てまわります。その展示内容はそれはそれで興味深いものなのですが、西宮神社に関わる疑問は解決できません。ということで学芸員さんに質問タイム!学芸員さんはロッカーから「慶長十年摂津国絵図」の複製本を出してページをめくってくれます。慶長十年といえば1605年、徳川秀忠が江戸幕府の二代将軍に就いた年で、その江戸時代初期の絵図によりますと西宮神社は武庫郡に位置しております。そしてその西を夙川と思われる川が流れており、その西にある集落も武庫郡に含まれております。普通に考えると川を郡境にするのが自然なように思われますが、どうしたことでしょう。(現在も西宮芦屋市境は夙川ではなくその少し西にあります。)
ムムムッ!では菟原郡の大国主西神社は西宮神社のことではないのかな?
すると学芸員さんが絵図を説明しながら興味深いことを言います。
学芸員さん 「川の流れなど治水工事などによって変わることがありますから、この絵図と現在の地形が一致するとは限りませんがねぇ。時代時代によってずいぶん変わります。」
こうすけ 「川の流れが変わる???」

夙川沿いの西宮市立郷土資料館。
さらなる謎解きのため隣接する中央図書館へ。じつに久々に図書館に入りましたよ。なんだか懐かしいなぁと感慨深くなるものの、中には懐かしくないものもありまして、それは音楽CDコーナー。へぇ~最近の図書館にはこんなものがあるのかとびっくりです。おじいさんが数名静かな図書館の中でヘッドフォンかけて目を閉じて音楽鑑賞中です。CDコーナーにはクラシック音楽などに並んで落語のCDもあるのですが、そんなの聴いてゲラゲラ笑っていたら、すぐさま大目玉を喰らうのでしょう。そんな人いたら面白いだろうなとしばらく観察しますが、図書館でゲラゲラ笑う猛者は現れませんでした。
おっと。そんなの観察に来たのではありません。真面目な顔して「町名の話」(山下忠男著 西宮商工会議所発行)を手にとります。
ふむふむ、なるほど、なるほど。そうなのか!!
なんだか少し嬉しくなって図書館を出て西宮神社へ戻ります。そして西宮神社から北へ進みマンボウと呼ばれるミニトンネルを抜けてJR線の北に出ます。

JR線の下をくぐるマンボウ。(居酒屋さんの奥)
先月の「こうすけの鉄分補給inにしのみや」でもJRの線路をくぐるマンボウを紹介しましたが、こちらのマンボウは谷崎潤一郎の「細雪」にも登場する由緒あるマンボウであります。
そしてマンボウの少し北に一本松というこれまた「細雪」に登場する由緒ある老松があるのであります。そこには石碑がありまして、、、、。

マンボウの北にある一本松。
その石碑には「史蹟往古武庫菟原郡境傳説地」と記されております。
昔、夙川(当時はその名は無かった)は現在の阪急夙川駅の北側あたりから南東方面に流れ、西宮神社の北(つまり一本松のあるこの地)から東を経由して海に注いでいたとされます。その川が武庫郡と菟原郡の境であり、当然ながら西宮神社は菟原郡に位置します。

川を挟んで青色側が菟原郡、赤色側が武庫郡。
また、平安時代の「純友追討記」に記述の見られる菟原郡須岐駅という宿駅が現在の宮西町あたりにあったとされます(須岐駅は現在の芦屋駅あたりにあったという説もあります)。
鎌倉時代に夙川の流れが治水工事により現在の流れに変えられることになり、西宮神社は川の東側、即ち武庫郡に位置することとなりました。また須岐駅周辺は新流路や土砂採取地となったため住民は川の西側の土地を開発し、従来の川東の土地は古宿と呼ばれるようになったそうです。

夙川が現在とほぼ同じ流れになった。
新しく開発された村は宿駅としての役割が次第に失われていき、農村としての性格が強くなっていくと「宿(シュク)」から「夙(シュク)」または「守具(シュク)」と変化していきます(「須岐(スキ)」から「シュク」に転じたという説もあり)。
どうやらこのあたりが夙川の川の名前の由来のようです。

江戸時代以降に郡境は夙川の西に移動します。
当初は夙川が菟原・武庫郡の境界でしたが、夙川の西側の守具(夙)の村は、武庫郡の古宿の子村(枝村)であったことから江戸時代の間に武庫郡に編入されたと思われます。これが夙川が西宮芦屋市境でない理由であります。
一方で大社村誌によると守具村の祖先は垂仁天皇の皇后に殉じて生き埋めにされそうになったところ、野見宿禰(ノミノスクネ)に救われたとされます。野見宿禰は殉死の代わりに埴輪を考案した人物で、村人は彼を崇拝し続け「宿禰(シュクネ)村」としたのが「守具(祝)」に変化したそうです。それが真実ならば夙川の名前の由来は野見宿禰ということになります。
いろいろややこしくなりましたが、やがて「守具」は「モリグ」と呼び名が変わり「森具」の字が充てられることとなりました。
森具村は昭和8年に西宮市との合併により行政区分としての名が消えましたが、現在でも国道2号線の交差点、阪神バスの停留所などに「森具」という地名を残しています。
(森具・守具の地名はかつてこの地が京からの西国街道と大坂からの西国街道の出合の宿場町であったとの説もあります。)

夙川橋から約400メートル程西の国道2号線「森具」交差点。
屋敷町周辺は森具村の中心地で、かつての街道を偲ばせる狭い路が通り、蛤御門の変で敗れ国許へ逃れる長州藩士を見守ったとされるお地蔵さんなどがあったそうです(「町名の話」より)。そのお地蔵さんを探してみますが、この辺りは阪神大震災の被害が甚大であった地域で大規模な区画整理が行われたので昔ながらの狭い路地など見つからず、結果お地蔵さんにも出会えませんでした。そのかわり森具公園の端っこに震災の犠牲者を慰霊するお地蔵さんを見つけましたので手を合わせます。
国道2号線を横断して森具のお宮さんである須佐之男神社にお参りします。手水舎に向かうとセンサーで自動感知して水が流れ出すので思わずびっくりしてしまいます。小さな神社なれどハイテク機器が備わっています。

森具のお宮さん 須佐之男神社。ハイテク設備完備!!
お参りの後は2号線を東に向かいます。その名の由来に触れた夙川まではすぐです。国道2号線の夙川橋から北に行くとJRの列車が東へ西へと夙川を渡っていきます。

複々線のJRの線路が夙川を跨ぎます。
東京起点に573キロ480.08メートルの地点にある夙川に架かるこの小さな鉄橋は明治7年大阪~神戸間に鉄道が開通した折に架けられた由緒ある鉄橋です。マンボウというようなユーモラスな名前でなくて残念ですが、この鉄橋にも名前はちゃんとあるのであります。
その名は「守具川橋りょう」!!!
JR西日本に確認しましたところ「もりぐがわきょうりょう」と読むそうです。「守具」という地名がここに残っておりました。「夙川橋りょう」とは言わないところになんだか嬉しくなってきます。このことを誰か人に話したくなってきますが、話が長いと煙たがられるのが関の山です。それに手書きで地図を作製するのも大変なものです。

「夙川橋りょう」にあらず「守具川橋りょう」!!
最後までお読みいただいたみなさん。とりとめもない長い話になってしまいました。少しばかりのお付き合いといいながら随分引きずりまわしましたねぇ。ごめんなさいねぇ。まぁ、「30分だけ飲みに行こう!」などと言って本当に30分でお開きになったことなんてないのと一緒です。
でも私にとってはなかなか面白い謎解きでした。もしあなたがこういう回りくどいことに興味を示さないのであれば、中央図書館に行って落語のCD聞いてゲラゲラ笑ってみるのはいかがでしょう。そこで大目玉喰らっている人など観察するのが大好きな人もいるんですよ。
西宮に根付いて郷土史の研究などに興味がある人、図書館で落語を聞いてゲラゲラ笑いたい人は是非「にしのみや」での就職を考えてみよう!!まずはサクラナビをチェックだ!!
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by nishinomiyacci
| 2015-07-02 01:00